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大連と旅順・三日間の旅


日時:2001:平成14年2月18日(月)〜2月20日(水)2泊3日

2日目・・・2001:平成14年2月19日(火)


■旅順への旅
朝6時前に起き・・といっても日本時間7時前なので、いつもと同じような時間に目が覚め、モーニングを食べに行った。ホテルの2階に ある店は結構広く、パンに中華風に、果物に・・と沢山の惣菜が並べてあった。私は焼飯や一品の中華風おかずをとり、取り敢えず席に着 いた。旅の気分転換が功を奏したのか腹の調子も良くなってきたようだった。

旨いと思って食べれるようになって来た。コーヒーを入れてもらい、後から西瓜などの果物も食べ、いつもの日本のパン1枚と紅茶だけの 朝食とは多違いの旅の朝食である。私たちを乗せたバスは予定より15分ほど遅れて7:45に出発し、まだ春節最後の日の大連市内を見 ながら旅順に向かった。途中から快速道路なる有料道路に入り、海沿いの眺めであったり、山間の景色であったりのドライブを楽しみなが ら、私にとっては一番の旅行の目的地である日露戦争の戦跡めぐりへと向かっていったのである。

ガイドさんの説明では、旅順は中国海軍の基地があり、今も市内は解放されておらず、外国人が許可なく立ち入る事は許されていないらし い。もし見つかれば、本当か嘘か知らないが、拘留されると言う話である。ガイドさんもこんな軍事衛星の発達した今日、意味もないのに 何故?解放しないのか理解できないと行っていた。

まず私たちは東鶏冠山に登り、ロシア軍が築いた強固な要塞を見学した。日本軍は乃木将軍の第3軍が旅順の攻撃に当たったが、参謀伊地 知幸介の無策により累々と戦死者の山を築くばかりで攻略できなかった。旅順攻撃での日本軍の戦傷者は六万人の膨大な数字になり、戦死 者は15,400人にも上った。この戦いで乃木将軍の二人の息子も戦死している。

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その要塞を見たが、厚さは2メートルほどもあるコンクリートで囲まれ、大砲の弾でもびくともしないだろうと思うほどの堅固な要塞であ った。セメントにもち米を混ぜその強度を増していたとガイドの説明が有った。こんなコンクリートの要塞に守られた丘に日本軍は死者の 山を累々と築きながらも、攻め上がり、白兵戦では体の大きいロシア兵に一歩も引けを取らず優勢であったと言われている。小さい日本人 が体の大きい白人のロシア兵に対し、白兵戦で有利であったと言うのを聞いて、当時の日本人の勇敢さに胸を打たれる。

今の日本人にその勇気の百分の一も有るのだろうか・・・国の為に、その言葉さえ今の日本では、軍国主義に結び付けられ禁句とされる言 葉なのである。自分さえ良ければ・・・そんな寂しい根性だけの日本人が今の時代を恥かしく生きている。大陸に夢をかけ、大国ロシアと 戦い勝った日本人が1905年にこの地で堂々と生きていた。今からたった97年前のことである。

東鶏冠山の次に水師営に行った。ここはまさに203高地を陥落させ旅順に停泊中のロシア海軍を殲滅した後、敵の将軍ステッセルが降伏 し乃木将軍と会見した場所である。そこは旅順の市街から遠く離れたはずれに有った。水師営という村の劉というなんの変哲もない普通の 農家だったらしい。今の建物は当時のままを模倣し建てかえられたらしい。当時と同じであるとガイドは言っていた。中は土の土間だけの 部屋が二つに分かれており向かって左側がロシア軍の待機場所であった。そこには長い机が置かれていた。

壁には日露戦争の写真と共に、中国お決まりの日本軍による中国人への虐待の写真がまことしやかに掲示されていた。こんな写真全部どこ からか持ってきたり、合成したり、演出して自ら撮影した嘘八百の写真なのだろう・・・一見してあまりにおかしい真実味のない写真ばか りだった。これが中国人のやり方なのだ・・・全てに共通している

水師営

この辺にはトイレもなく、男は水師営の建物の裏で立小便をしてくれと言う事だった・・・これも中国、これは楽しいが 水師営を出て、203高地に向かった。もっとゆっくりと感傷に浸りたいのにこれがツアーである。バスで203高地の中腹まで登り、後 は歩いて山頂へと登る。200メートルほど歩くだけなのだが、勾配もあり籠屋が待ち受けていた。5,6組はいたと思うが、金毘羅さん に有る籠かきやの中国版である。バスから21人の一団がありるやいなや、寄ってきた。幸い3,4人がそれに乗り、あとは諦めてくれた。 個々に歩く私たちを、後から登ってきた籠が次々と追い越してゆく、中国人の色黒い若い肉体労働者である。

前後に二人が棒を担ぎ、乗る人は足を伸ばして座る、籠を担ぐ中国人は寒くても汗をかきながら黙々と登っていった。 山頂に上ったら乃木将軍が旅順の攻防で銃弾や砲弾、薬きょうを集めて建立したといわれる弾丸型の記念碑があった。そして旅順港が遠く に一望できた。この高地を攻略する為に日本の若き兵士や士官が死んでいったのである。この山頂からの眺めも見ずして・・・ 1904年12月5日203高地を占領した。

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児玉源太郎の作戦によって、あれほど戦死者の山を築いても攻略できなかった203高地が、午前9時から攻撃を開始して、同10時20 分には203高地西南角は完全に日本軍に占領されたそうである。わずか1時間20分で・・・・そして午後2時には占領がほぼ確定され た。その日の乃木希典の日記には「朝ヨリ203砲撃。9時ヨリ斎藤支隊前進。目的を達ス」と簡潔に書かれていたらしい。

この日も天気が良く、霧もなく、ガイドさん曰く「珍らしいです」と言うぐらい旅順市街と港が一望できた。日本軍の若き“つわもの”ど もが、仲間の戦死を乗り越え、ここからこの景色を紛れもなく眺めたのだろう。どんな想いを胸に抱いてこの景色を眺めたのだろう。 兵

旅順の街をバスの中から写す>
旅順港を見学の為、市内に向かった。解放されていなく大連などの街に比べればまだまだ遅れているらしい、そして街の住 人の内、軍人が多くを占めているという事であった。旅順港の見学と言ってもバスの中から見るだけで降りることも出来ず、写真撮影も禁 止と言う事である。ガイドさんが「写したければバスの中から見つからないように・・・」なんて言っていたが、まあその口振りからまあ 大丈夫の様であった。

立ち入り禁止の中国海軍の基地といっても、港にあるのは哨戒艇のような小さな船が3,4隻有るだけで軍艦など皆無であった。これの何 処が海軍基地なのだと思う、全然たいした事のない旅順港をバスは止まりもせず走り抜けた。水兵服を来た海軍兵士をちらほら見受けたが 変わらぬ中国の町の光景であった。ロシア海軍がずらっと停泊し、旅順口に広瀬武夫が第一回の閉塞作戦を挙行したのは98年前の2月2 4日のことである。港口はホントに見ても狭く、両側の砲台から砲撃を受ければひとたまりもない近さである。 3月27日にも第2回旅順口閉塞作戦を挙行し、ロシア武官であった広瀬武夫は戦死し、作戦も失敗した。

もっと、もっとゆっくりと日露戦跡を見て周りたかったが、ツアーの宿命なのか駆け足、と言うより速足で走り抜けた旅順の旅を終わり、 バスは大連へと戻る途中、工芸品の店により、その後日本料理の店での昼食となった。粗末で不自然な着物姿の小姐がいるその日本料理店 で焼き魚定食のようなものを食べた。焼き魚(さば?)の大きさが日本の3倍くらい有るのには驚いたが、その他は変わらぬ味だった。

ガイドの説明 大連の以前の市長は薄熙来(はくきらい)と言い、ケ小平時代の大幹部の息子で、市長としての抜群の手腕を発揮し,今は遼寧省の省長 (県知事)に抜擢された人物。その行政手腕をしきりに自慢していた・・・それによると
◎大連の工場を郊外に移転し、市内の環境改善を果たした・・・大気汚染の減少
◎スラムのような建物をつぶし、一夜にして芝生公園に変え、芝生市長とも言われている。
◎虫がつく、アカシヤの街路樹を全部抜き、植え替えた。
◎郊外に欧米風の住居を沢山建て、大連の景色を欧米風に変えた。

等々・・独裁権力の行使できる中国ならではの話を聞き、あきれると共にその欧米風の似合わない建物群に失望した。 ましてそれらの住居は高価で海沿いに建てられた物が多く、大連市民は誰も買わない、何も知らない大連以外の金持ちが買うのだろうと、 ガイドも自嘲気味の説明であった。それらの豪邸?は空家ばかりで、こんな投資が一体どれほど採算が取れ、大連の為になっているのか はなはだ疑問でしかない・・・それに、薄熙来が遼寧省の省長になた後の市長は、薄熙来の弟が市長に成っていると聞き、唖然とするしか ない。コネと血縁とがない者は、能力なんて関係なくチャンスが皆無に近いのが、実態なのだろう。

いくらガイドが薄熙来の行政手腕を自慢しても、私には馬鹿馬鹿しくしか思えなかった。

昼食後、自由市場やお茶やさんやら・・・買い物コースのオンパレードであった。 これが超低料金、豪華ツアーの中味なのだろう、まあ仕方がない、出来なければどうして採算が取れるのか?不思議なくらい安い旅行なの だから。私もそれぞれの店で、えびの燻製、お茶屋では瀬戸物の笑わせる小便小僧等・・・ほんの少しのお金は使った。




(2月19日、終わり)

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